後斜角筋の概要
後斜角筋は、斜角筋群(前・中・後)の中で最も後方、かつ最も深層に位置する筋肉です。個体差による欠如や変異が大きく、臨床で見落とされがちですが、上位胸郭の可動性や呼吸パターンに深く関与する重要な存在です。
基本データ
| 項目 | 内容 |
| 支配神経 | 頸神経前枝(頸神経叢および腕神経叢の分枝) |
| 髄節 | C6–C8(文献によってC5–C7横突起の後結節から起始する報告もあり) |
| 起始 | C5–C7横突起の後結節(個人差によりC4やC8の横突起を含むことがある) |
| 停止 | 第2肋骨(外面)(稀に第3肋骨に停止するバリエーションが存在) |
| 栄養血管 | 上行頸動脈(下甲状動脈の枝) |
| 動作 | 第2肋骨の挙上(吸気補助) 頚椎の同側側屈(単独収縮) 両側で軽度の頚部屈曲補助(寄与は小) |
| 筋体積 | 5.2 ㎤ (前斜角筋:3.8 ㎤、中斜角筋:11.0 ㎤) |
| 筋線維長 | 5.8㎝ |
| 速筋:遅筋(%) | 70.0:30.0(※斜角筋群全体のデータ。速筋比率が高く、素早い姿勢保持や吸気補助の固定に適している) |
バイオメカニクスと臨床的意義
■ 斜角筋隙(第1のトンネル)との位置関係
腕神経叢や鎖骨下動脈が通過する「斜角筋隙」は、前斜角筋と中斜角筋、そして底面となる第1肋骨によって構成されます。後斜角筋はこの斜角筋隙の形成に関与しないため、胸郭出口症候群(TOS)の直接的な圧迫原因(主座)にはなりにくいという解剖学的特徴があります。
■ 上位胸郭の過活動と呼吸代償
慢性的なストレス、呼吸器疾患、または反復する頭部前方位(フォワード・ヘッド・ポスチャー)によって横隔膜の機能低下が生じると、代償的に補助吸気筋である斜角筋群全体の過活動が引き起こされます(肩呼吸や口呼吸のパターン)。 後斜角筋が慢性的に過緊張を起こすと、**第2肋骨が過剰に引き上げられた位置で固定(挙上位固定)**され、これが上胸部の痛みや頑固な首・肩の張り、肋椎関節の可動性低下を誘発する一因となります。
触診のコツ(肩甲挙筋・中斜角筋との鑑別)

後斜角筋は小さく深層にあるため、隣接する頑強な筋肉との違いを明確に評価することが求められます。
- 準備肢位: 背臥位(仰向け)または坐位。被検者の肩甲帯を十分に脱力させ、顎を軽く引いたリラックスした姿勢をとらせます。
- ランドマークの特定: 頸部外側において、中斜角筋の後縁と**肩甲挙筋の前縁との間にあるわずかな間隙(スリット)**に指腹を優しく滑り込ませます。
- 収縮テスト(動作連動): 被検者に「ごく軽い同側側屈」を行わせると、指腹の下で後斜角筋が小さく収縮し、緊張が高まるのを捉えることができます。
- 肩甲挙筋との鑑別: 肩甲挙筋は肩甲骨の挙上や下方回旋だけでなく、頸部の同側側屈にも関与するため混同しやすい筋です。そのため、触診時には肩甲骨を下制位で徒手的に固定し、肩甲骨の代償挙上を防いだ状態で頸椎のみを側屈させます。これにより、肩甲挙筋の緊張変化を最小限に抑え、後斜角筋の単独収縮を選択的に確認できます。
- 触診時の安全配慮: 斜角筋群の周囲は重要な神経(腕神経叢など)や血管が密集しています。しびれや不快感を避けるため、決して力任せに強く押さえず(強圧厳禁)、軽いタッチと等尺性収縮による反応で確認します。
ストレッチ

- ポジショニングの特徴: 前斜角筋や中斜角筋は「頸椎伸展位」で最も伸びますが、後斜角筋は「頸椎屈曲位」でテンションが乗りやすい特性があります。
- 手順:
- 胸を軽く張り、ストレッチする側の肩(肩甲帯)を下制させて固定します(椅子を掴む、またはお尻の下に手を敷くのが有効です)。
- 頭部を**軽度屈曲(軽く前へ倒す)+反対側へ側屈(耳を肩から遠ざける)+反対側へ回旋(顔を反対側に向ける)**させます。
- この肢位を維持し、心地よい伸張感のある位置で20〜30秒間保持します(2〜3回反復)。
- ※指先にしびれや冷感、首元にドクドクとした拍動感を感じた場合は、血管・神経の圧迫リスクがあるため直ちに中止してください。
徒手的な伸張技術・ファシアリリース
- 施術者は、患者の第2肋骨の起始(停止部付近)を手のヒールで尾側方向へ軽く圧迫して固定(アンカー)します。
- もう一方の手で患者の頭頸部を優しく保持し、上記の「軽度屈曲・対側側屈・対側回旋」方向へと伸張を促します。
- 等尺性収縮後の弛緩(ホールド・リラックス)を応用し、患者に軽く同側側屈方向へ数秒間抵抗をかけてもらった後、ゆっくりと力を抜かせ、その瞬間に優しく伸張させるとより効果的です。
トリガーポイント(TP)

- 好発部位: 後斜角筋の停止部付近(第2肋骨寄り)から筋腹にかけて形成されやすい。
- 関連痛領域: トリガーポイントが活性化すると、頸部の外側から肩甲骨上角(上背部外側)、さらには上肢の外側面へ、鈍く重い痛みが放散します。
- 臨床的な洞察: しつこい肩甲背部痛や「肩甲骨の内側が凝る」と訴える症例において、第2肋骨の過挙上に伴う後斜角筋のトリガーポイントが引き金になっているケースは少なくありません。上位胸郭の過活動(呼吸の乱れ)とセットでアプローチする必要があります。
クリニカルメモ
- 呼吸パターンの再学習: 浅い胸式呼吸や口呼吸、あるいは頭部前方位姿勢が習慣化している症例は、斜角筋群が過活動になる温床です。局所的な治療だけでなく、横隔膜を優位にした腹式呼吸や、下位胸郭の横拡張(3D呼吸)を指導し、後斜角筋にかかる吸気代償の負担を根本から取り除きます。
- 第2肋骨のモビリティ評価: オーバーヘッドスポーツ(投球、スイミング、テニスなど)での過度な吸気・固定負荷は、第2肋骨が挙上したままロックされる「挙上位固定」を招きます。上胸部の張りや首のツッパリ感を解消するために、肋椎関節のモビリティ(関節可動性)の評価や、第2肋骨への徒手的な下方モビライゼーションを治療プランに組み込むと効果的です。
- 安全管理の徹底: 患者が指先や手の持続的なしびれ、冷感、あるいは握力低下を訴えている場合、後斜角筋単独の問題ではなく、斜角筋隙での腕神経叢・鎖骨下動脈の絞扼(TOS)や、頸椎ヘルニアなどの神経根症を最優先に疑ってください。安全第一で評価を行い、介入の是非を判断します。
よくある質問(Q&A)
Q:後斜角筋が単独で胸郭出口症候群(TOS)を引き起こすことはありますか?
A: 解剖学的に後斜角筋は「斜角筋隙」を構成しないため、この部位で直接血管や神経を圧迫する主因にはなりません。ただし、後斜角筋の過緊張によって第2肋骨が過剰に挙上されると、胸郭出口の全体的なアライメントが崩れ、鎖骨下筋や小胸筋などの隣接部位での圧迫・牽引ストレスを間接的に助長し、TOS症状を悪化させる一因になります。
Q:前斜角筋・中斜角筋のストレッチと同じ肢位で行って良いですか?
A: 異なったアプローチが必要です。前斜角筋や中斜角筋は頸椎を「伸展」させた位置で最もストレッチされますが、後斜角筋は第2肋骨に停止する解剖学的走行上、「頸椎を軽く屈曲(前傾)」させた方が、停止部が後方に引かれて効率よくテンションをかけることができます。屈曲・対側側屈・対側回旋の組み合わせを意識してください。
Q:触診の際、どうしても肩甲挙筋と混ざってしまいます。触り分けのコツは?
A: 最も有効なのは、肩甲骨をしっかりと固定することです。肩甲骨を下制位で固定したまま、首だけを側屈させたときに収縮するのが後斜角筋です。もし、首を傾けたときに肩甲骨が一緒に持ち上がったり動いてしまうと、肩甲挙筋が優位に働いているサインとなるため、肩甲骨の代償運動を指や手で抑えてテストしてください。
Q:後斜角筋が欠如している患者も存在するというのは本当ですか?
A: 本当です。 斜角筋群は解剖学的な個体差が非常に大きく、後斜角筋が生まれつき存在しない、あるいは極めて細い小筋束に退化しているケースがあります。触診時にターゲットの領域が極めて平坦である、あるいは動作連動でも筋腹の緊張を感知しにくい場合は、無理に追い求めず、中斜角筋や周囲の筋膜の柔軟性を優先してアプローチすると治療がスムーズになります。
Q:後斜角筋の周辺を押したときに「手の先までツーンとしびれる感覚」を患者が訴えた場合は?
A: 即座に圧迫を中止し、それ以上の強圧は絶対に避けてください。 その部位の深層を走る腕神経叢や鎖骨下血管を刺激している可能性が極めて高く、無理な圧迫を続けると神経に微細な損傷や炎症を引き起こす危険性があります。圧痛点や筋緊張を評価する際も、滑らせるような優しいタッチを心がけ、動作連動による低負荷での収縮・緩和を利用した方が安全です。
最終更新:2026-08-28
