オステオパシーの二大原理〜19世紀の医学革命〜

19世紀のアメリカにおいて、医学には大きく分けて、①アロパシー、②ホメオパシー、③折衷医学という三つの流れがありました。

アロパシーは「対症療法」という意味を持ち、現代でも西洋医学という意味で用いられることもある言葉です。

アロパシーは症状とは反対の作用をもつ薬剤を投与することにより、症状を緩和させることを目的としています。

風邪で高熱が出たら解熱剤を使うように、病気の根本を治すというよりは諸症状を抑えることが中心となります。

次いでホメオパシーですが、創始者はサムエル・ハーネマン(1755〜1843年)になります。

アロパシーが患者の症状と反対の作用をもつ薬剤を投与するのに対して、ホメオパシーでは同じような症状を起こす薬剤を投与します。

いわゆる「毒をもって毒を制す」という言葉は、ホメオパシー療法家の合言葉として使われます。

そして、ホメオパシーにおけるもうひとつの重要な考え方として、投与する薬物の量は少なければ少ないほど効果が高まるとしています。

ホメオパシーでは薬物を高度に希釈してしまうため、結局はほとんど効果がなくなってしまいます。

しかし当時は、アロパシーによって薬の量が増え続けていたので、薬の量を減らしたことだけで絶大な効果を発揮することになりました。

それが結果的にホメオパシーを広めることにも繋がりました。

最後に折衷医学ですが、こちらはスコットランドの治療家であるベネットが提唱しました。

こちらは名前のとおりにいろいろな考え方(アロパシーとホメオパシー)を適当に組み合わせたものです。

とくに軸となっている考え方があるわけではないため、厳密さに欠け、治療法も一貫性のないものでした。

そのため、折衷医学という言葉は現在では死語となっています。

そんなベネットですが、彼の最大の功績は当時ごくあたりまえに行われていた放血療法(瀉血)をやめさせたことです。

瀉血(しゃけつ)とは、人体の血液を外部に排出させることで症状の改善を求める治療法のひとつです。

当時はヨーロッパやアメリカの医師たちに熱心に信じられ、盛んに行われていましたが、現代では医学的根拠は無かったと考えられています。

そのような医学が蔓延していた頃に、薬剤信仰に疑問を抱いていたスティル博士が創始したのがオステオパシーです。

オステオパシーは二大原理の上に成り立っています。

第一原理は、病気に対する生体の普遍免疫理論であり、第二原理は、最大の病因を背骨に求める脊柱障害理論になります。

普遍免疫理論とは、ヒトは腫瘍を含むすべての病気に対して免疫を持っているという理論です。

この理論を提唱することで、薬剤によって病気を治すのではなく、本来から持っている免疫によって病気を治すことを示しました。

オステオパシーによって病気を治すというのは、オステオパシーによって病気に対する抗体を増やし、抵抗力を高めることに由来します。

次いで脊柱障害理論とは、身体で最高の組織である「神経」がおさまっている脊柱が、身体に不調を起こす鍵になっているとする理論です。

脊柱は非常に障害が起こりやすい場所であり、そこが血液の流れを乱す源になっていることがほとんどです。

神経も他の組織と同じように、血液(もしくは血液からできるリンパ液)の海につかって生きています。

そのため、背骨のすべりや不適応によって、無数の循環障害が起こります。

循環障害は免疫を弱めることに直結するため、脊柱障害を調整することこそが免疫を高めることに繋がると考えられています。

以上のことから、オステオパシーの基本は脊柱障害の調整であり、循環障害を改善して全身の免疫力を高めることにあります。

最近はオステオパシー関連の書籍をいくつか読んでみましたが、方法論を学びたいというより、その背景や歴史を学ぶことがとても面白かったです。

昔は治療手技の背景や歴史なんてどうでもよくて、とにかく明日から使えそうな手技ばかりに目がいっていました。

しかしながら、そうやって手に入れたものなんてあまり意味がなくて、臨床で悩みながら少しずつ学んだことだけに真理があったように感じます。

治療をしていくうえで新しい発見をする面白さを感じるためにも、このような書籍を読んで知識を広げていくのもいいかもしれません。


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The Author

中尾 浩之

中尾 浩之

1986年生まれの長崎県出身及び在住。理学療法士でブロガー。現在は整形外科クリニックで働いています。詳細はコチラ
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